跟著女兒來到博客,一切從頭學,慢慢來


by manmanlai
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   我见证了六十年前的太原解放。其实,那时我只是个十二、三岁、贪玩爱耍的孩童。所见所闻,极为肤浅,更谈不上有什么样的“立场”和“观点”,只能算是儿时的一些片段记忆。为记载这段童真无饰的回忆,我在新浪网上曾写过多篇关于太原解放前、后的博客,都是些当年无足轻重的鸡毛蒜皮小事。没曾想到,几十年后,家乡报纸(山西晚报)年初来电话,要约时间来家访谈,我问:“为什么呢?”“您也是太原解放六十年的见证人啊!”电话中这样告知。
   没过几天,晚报记者刘斌按约而来,稍加客套,顺手掏出录音器搁在桌上,开始了我们一问一答的聊天。言谈中,我大概已不像个上了年纪的老人,反倒像个掏气的顽童,滔滔不绝地表述着当年的种种往事。
   今年的4月24日,是太原解放六十周年纪念日,《山西晚报》发表了刘斌采访我的文章。原本他答应我,马上会把当天报纸寄给我。可是在三个多月之后的前些天,我才收到这张报纸。刘斌在E-mail中告诉我,这些日子他就没在家中呆过,哪里有喜情、灾情和险情,都须第一时间奔赴现场,为采访四川5.12地震一年后的重建情况,在那里就住一个多月的时间。唉!做记者也真不易,常见他(她)们报道别人,又有谁去报道他(她)们呢!

           
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纪念太原解放60周年特别报道

   报道的内容就不提了,单是把我和另一位六十年前曾参加过解放太原的全程战斗、获《解放太原功臣勋章》的英雄并列在一起(一个老兵;一个市民),已使我无地自容了。

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by manmanlai | 2009-08-28 07:56

生命是顽强的

   几年前开始写博客时,曾誓言:一生的所见所闻都可尽情直写;唯独“文化大革命”不能触及,因为对那个混乱的年代,稍写不妥,便会伤及无辜。这次,算一次唯一的例外吧。
   “生命是顽强的”。这句话,是我在“文革”中,从一位“走资派”那里学来的。时至今日,我觉得把这句话算作至理名言,也不无道理。
   “文革”中的某大学,有位系的党总支书记,是位复转军人,在朝鲜战场曾负伤立功。平日,衣着简朴言谈随和,他外表瘦小体弱,残疾的右手五指伸展不开,开会时常见他用右手的拳头夹着笔在本子上记点什么。因为我们不在同一个系工作,所以和这位总支书记也只是点头之交。
   “文革”中很长一段时间内,他都是全校出名的“走资派”、“叛徒”和“特务”…,全校的“批斗大会”总少不了他。有时他是“陪斗”也得上台。所特殊的是,别的批斗对象,一般是由两个“造反派”押上台来,以便随时令其低头认罪、下跪、罚站或做“喷气式”,而押这位总支书记上台时,通常只需一位“造反派”就足矣,因为书记的体重也就三、四十公斤,耗无反抗之力,一只手就可以轻易地把他抓起来,手一松,自己就爬在地上了。在小型批斗会上的情况,我虽未亲眼所见,但也可想而知。
   有一天,批判这位总支书记的大字报,突然在校园内铺天盖地而来,揭露的是在他的身上发现一张纸片,上面他自己歪歪扭扭地写着“生命是顽强的”六个字。大字报称,可见其“顽固到底,死不改悔的决心。”显然,“造反派”见字后,更加憤怒了。
   据我估计,这几个字是书记在危难时刻为提醒自己而写的“警言”或“警句”。生命确实是可贵的,既或是多么脆弱、渺小、无援、或被误解和在无望的情况下,谁也无权对自己的生命言弃。这个道理是永恒的,书记是极为理智的。
   现在,早已时过境迁,这类恶梦般的记忆已在慢慢渐忘。
   前日,忽有至交好友来家探望,还未落座就从衣兜里掏出一个纸包,说是远路带来的礼物。打开一看,竟是几片再普通不过的树叶。据说,每片树叶泡在水里,几天之后,叶面上会生出许多根毛,把每个根毛埋在土里,都能长成参天大树。我听得也觉神奇,我家虽无可栽植参天大树的“庭院”,但一碗清水还是有的,马上把这几片叶子放入水碗里,以验其所言真伪。
   几天来,对这几片叶子并未特殊精心护理,只换换清水,不料,几片快要枯死的叶片,却长出了缕缕毛根。

              
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长满毛根的叶片

   这件小小的礼物,倒让我再次想起了“生命是顽强的”这句名言,也钩起了那段早想被忘却的回忆。

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by manmanlai | 2009-08-14 10:30
   ある程度年齢を重ねた中国人が日本現代文学に触れた(対する理解を持った)のは山崎朋子さんの『望乡(サンダカン八番娼館)』からであることが多い。実はこの本を読んだことがある人はそんなに多くないのだが、これをもとに作られた映画『望乡(サンダカン八番娼館)』を見たことがある人の数となると一気に多くなる。あれは中国が文化大革命を切り抜けたばかりの1978年の秋であった。映画『望乡(サンダカン八番娼館)』が中国で初上映されるとたちまち好評を博し、中国人に日本の「別の一面」を見せた。ほとんど同時期に上映された、『追捕(君よ、憤怒の河を渡れ)』や『生死恋(二人の世界)』などの日本の名作とともに中国で一大ブームを巻き起こし、一世を風靡したといえる。その後、人々がよく知る山崎朋子さんのもう一つの著書『サンダカンまで』の中国語版『通往《望乡》之路』が2004年の夏に中国で発行された。2007年3月には『朝陽門外の虹』の中国語版である『朝阳门外的彩虹』が各大都市の書店で高い売り上げを残している。

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山崎朋子さんのいくつかの中国語訳本

   『朝陽門外の虹』をまだ読んでいない2006年に筆者は『Oberlinと日本の桜美林大学』という題名でブログを書いた。その中で一人の日本人 清水安三先生の業績について触れた。1919年に中国北平にやってきた彼は『五四運動』の考え方に触れることとなった。彼は陳独秀や胡 适、そして魯 迅といった人々の著作を読んだことがあり、またこれらの人と行き来もあった。あの数年中国北方は災害に面していた。清水先生は北平の朝陽門外の被災者が集まってできたスラムのような場所で、路頭をさまよう女子のために「崇貞女校」を設立し、規模はだんだんと大きくなっていた。一度やり始めると戦争が終わり中国政府の管理に移るまでの二十何年間も続き、後に何度かの変革を経て今の北京朝陽門外の「陳経倫中学」になった。清水先生は戦後日本に戻ると今度は東京都の町田で「桜美林大学」を設立した。日中国交成立後この二つの学校はすぐに緊密な関係を作り、日中民間友好の美談となっている。

   筆者がこのことについて調査や理解および学習をしている間、清水先生の教育に対する情熱にたびたび感動させられた。我々中国人は中国が最も苦しかったときに我が身を投げ打って我々を助けてくれた日本の友達―清水安三先生を永遠に忘れてはならない。

   2007年の春に私が山崎朋子さんの力作『朝阳门外的彩虹』を読んだとき、感動のあまり涙が止まらなかった。この本は詳細な資料に基づいてノンフィクションの形を取り、(自体がまるで詳細な資料のようであり、真実を書き連ねていくという書き方で)清水安三先生とご家族が北平朝陽門外のスラムに「崇貞女校」を設立した全過程について褒め称えてあった(書いてあった)。そのとき私は思った、このすでに亡くなった日本人を覚えているのは中国人だけではなく、日本の良知を代表する作家山崎朋子さんと彼女の多くの日本読者もそうであると。(『朝陽門外の虹』は出版されるとその年のベスト10に入り、今では十数版を重ねている)

   かのフランスの大文豪ヴィクトル・ユゴーが名言を残している。「統治する者が犯した罪と統治される者の間には何も関係はない。政府は時に強盗にもなり得るが、人々は永遠にそうなり得ない。」

   虹は太平洋を跨ぐような、北京と東京を結ぶ橋である。これはすでに「崇貞女校」の久遠の歴史によって証明され、さらには日中両国の国民が繁栄に向かうためには避けることのできない道である。

   山崎朋子さんは1932年に福井県に生まれた。父親は海軍某潜水艇の艦長であったが、1940年のとある演習の際に艦とともに大海原に沈んだ。家庭はこのようにして突然の打撃を受けて変わってしまい、長女であった朋子さんは家を出てただ身一つで東京へ向かった。年若くして聡明かつ美人だった朋子さんはさまざまな紆余曲折を経たが、それらは彼女をさらに理知的でしっかりとした、成熟した女性に変えていっただけであった。彼女は倦まず弛まず(休まず)に進歩を追及し、心の中は将来芸術に身を投じる(かかわる)ことへの憧れでいっぱいだった。彼女は中国の多くの芸術家と同じく、フランスのロマン・ロランなどの作家の作品を好み、ソ連のスタニスラフスキーの表現理論の研究に心を傾けた。彼女はこの理論の原作を読むために大変な努力をしながらロシア語を独学した。その手から「露和辞典」を離さないこともしばしばあったという。(あの時代に日本でロシア語を学ぶのは中国で学ぶよりもはるかに大変なことだった。)彼女の情熱がここからも伺える。

   著作活動を始めた彼女だが、「誰のために書くか」ということについては常にはっきりしている。彼女の出世作となった『サンダカン八番娼館(望乡)』の主人公「からゆきさん」だったおサキさんからも分かるように、山崎さんが目を向けているのは社会の底辺にいる女性である。彼女は貧しい労働者に対して常に心からの同情を寄せている。山崎さんは北京の書店でのとあるサイン会の際の様子をこのように語っている。「本を買いたい人の列は一列の長い列になり、青年男女が中心だが中高年も中にはいて、どうやら北京に出稼ぎに来た人たちも少なからずいたようだ。これは彼らの服装や顔、手などの様子からも分かった。私が頭を下げて読者にサインをしているとき、机の下にある、泥が付いた布靴に気が付いた。中にはつま先が見えるものさえあった。」山崎さんはその目で見たものに誇りと安堵を覚えたようだ。

   「誰のために書くか」という問題は解決したが、まだ「どうやって書くか」という問題が残っている。山崎さんは一貫して先に調査、研究を行ってから書いている。彼女が初めて中国を訪れた際には農村の貧しい地域への取材を強く希望し、接待する人を困らせたこともある。彼女の取材は決して「一過性」のものではなく、普通は三回以上は取材を重ねる。こうすることによって心を通い合わせることができるからだという。例えば『朝陽門外の虹』を見ても1992年から資料集めに着手し、完成するまでに10年もの時間を費やしている。

   著作に対する真面目な姿勢と努力を厭わない探索精神によって、彼女はとっくにノンフィクション作家およびアジア女性史学の専門家として公認されている。私は幸運にも皆さんに告げることができる。今日に至るまで山崎朋子さんは変わらずに神聖な目標へ歩み続けている。これこそが中国の多くの読者への福音に違いない。


翻訳:小象
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by manmanlai | 2009-08-01 22:10
   在上点年纪的国人中,对日本现代文学作品的认识,多数人是从山崎朋子的《望乡》开始的。其实,真正看过这本书的人並不多,而看过由它改编的电影作品《望乡》的人数就多得多了。那是在中国刚刚冲破封闭不久的1978年之秋,电影《望乡》在中国首次上演,就获得了一致好评,让中国人看到了日本的“另一面”,和当时几乎同时上演的《追捕》和《生死恋》等日本的优秀影片,在中国掀起一股热潮,可谓是风靡一时。此后,山崎朋子为人们熟知的另一著作的中文版《通往“望乡”之路》,于2004年夏季在中国发行。到2007年3月她的《朝阳门外的彩虹》中文版,在各大城市的书店已抢手热销。

     
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几本山崎朋子著作的中译本

   在读到《朝阳门外的彩虹》之前,笔者在2006年曾写过一篇名为“Oberlin和日本樱美林大学”的博客。文中记述了一位日本老人清水安三先生。从1919年他就迁居中国北平,接触到了“五四运动”的新思潮,他读过陈独秀、胡适、鲁迅等人的著作并与之有所交往。那几年,中国北方正在遭遇灾荒。清水就在北平朝阳门外灾民聚焦的贫民窟,为流落街头的女童办起了“崇貞女校”,规模由小而大。一办就是二十多年。直到抗战胜利,中国政府接管该校,几经变革成为现今的北京朝外“陈经伦中学”。清水返回战后日本,又在东京都的町田办起了“樱美林学园”。中日建交后,这两所学校迅速建立紧密连系,已成中日民间友好的美谈。

   笔者在调查、了解和学习这段历史时,常为清水先生的办学精神所感动。我们中国人永不该忘记,在中国最困难的时刻,这位无私帮助过我们的日本朋友-清水安三先生。

   2007年春,当我读到山崎朋子的力作《朝阳门外的彩虹》时,我被感动得热泪盈眶。全书都在以詳实的史料、记实的笔法赞颂着清水安三和他的家人在北平朝阳门外的贫民窟创办《崇贞女校》的全过程。让我顿时想到:没有忘记这位已故日本老人的,除了中国人,还更有代表日本良知的作家山崎朋子和她那成千上万的日本读者(日文版的《朝陽門外の虹》出版后,被列为日本当年十大畅书之一,至今已一再增印十多次)。

   法国大文豪维克多・雨果曾有一段至理名言:“统治者犯下的罪行同被统治者是不相干的;政府有时会是强盗,可是人民永远不会。”

   彩虹,有如横跨浩瀚太平洋、沟通北京和东京的一座天际之桥。她已为久远的“崇贞女校”历史所証实,更应是未来中、日两国人民走向繁荣富强的必经之路。

   山崎朋子,1932年出生于日本福井县。父亲曾是海军某潜艇的舰长,在1940年的一次演习中,整舰沉没消失于大海。在家庭受到突如其来的打击和变故后,作为家中长女的朋子,只身离家外出到东京闯荡。年青聪慧而美丽的朋子,虽经历了种种磨难和艰辛,其实只是使她变得更加理智、坚定和成熟。她孜孜不倦地追求着进步,心理充满着对未来投身艺术事业的无限憧憬。她和我国许多的艺术家前辈一样,热爱法国罗曼・罗兰等作家的作品,醉心于对苏联斯坦尼斯拉夫斯基表演理论的钻研。她为了阅读该理论的原著,苦苦自学俄语,常见她手不离《俄日字典》(那个年代,在日本学习俄语的环境,远不如中国方便)。她的执着精神,可见一斑。

   从事写作之后,在“为谁而写”的问题上,山崎从来都是旗帜鲜明。从她的成名作《望乡》的主人公“南洋姐”阿崎婆身上不难看出,作家所关注的是社会最低层的妇女。她对穷苦的劳动者,无时不在倾注着发至内心的同情。山崎在写到她在北京书店的一次为购书者签名时是这样自述的:“想要买书的人排成一列长队,以青年男女为主,也有中、老年人,还有不少像是从其他地方到首都来打工的人,这从他们的服装以及脸和手的模样上都不难看出。当我低下头为读者签字时,我看到桌子下面一些粘着泥的布鞋,有的还露出脚趾尖。”山崎显然是在为所见,而深感自豪和欣慰。

   在解决了“为谁而写”的问题后,还有“怎么去写”的问题。山崎朋子从来都坚持先调查研究。朋子起初来中国访问时,提出要到农村基层采访的强烈要求,曾使接待人员不解和为难。她的采访绝非“走过场”,她和受访者的交谈一般都在三次以上,真正做到彼此交心。就《朝阳门外的彩虹》的写作过程看,从1992年着手收集资料,经历十年之久,才完成了这一工作。

   由于她严肃认真的写作态度和刻苦钻研的探索精神,山崎朋子早已是公认的记实文学作家及亚洲女性史学的专家。我幸运地告诉诸位:时至今日,山崎朋子女士仍在为此神圣的目标,不停地耕耘着。这才是中国广大读者的福音。



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by manmanlai | 2009-08-01 13:43