跟著女兒來到博客,一切從頭學,慢慢來


by manmanlai
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日本の著名な現代作家―山崎朋子さん

   ある程度年齢を重ねた中国人が日本現代文学に触れた(対する理解を持った)のは山崎朋子さんの『望乡(サンダカン八番娼館)』からであることが多い。実はこの本を読んだことがある人はそんなに多くないのだが、これをもとに作られた映画『望乡(サンダカン八番娼館)』を見たことがある人の数となると一気に多くなる。あれは中国が文化大革命を切り抜けたばかりの1978年の秋であった。映画『望乡(サンダカン八番娼館)』が中国で初上映されるとたちまち好評を博し、中国人に日本の「別の一面」を見せた。ほとんど同時期に上映された、『追捕(君よ、憤怒の河を渡れ)』や『生死恋(二人の世界)』などの日本の名作とともに中国で一大ブームを巻き起こし、一世を風靡したといえる。その後、人々がよく知る山崎朋子さんのもう一つの著書『サンダカンまで』の中国語版『通往《望乡》之路』が2004年の夏に中国で発行された。2007年3月には『朝陽門外の虹』の中国語版である『朝阳门外的彩虹』が各大都市の書店で高い売り上げを残している。

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山崎朋子さんのいくつかの中国語訳本

   『朝陽門外の虹』をまだ読んでいない2006年に筆者は『Oberlinと日本の桜美林大学』という題名でブログを書いた。その中で一人の日本人 清水安三先生の業績について触れた。1919年に中国北平にやってきた彼は『五四運動』の考え方に触れることとなった。彼は陳独秀や胡 适、そして魯 迅といった人々の著作を読んだことがあり、またこれらの人と行き来もあった。あの数年中国北方は災害に面していた。清水先生は北平の朝陽門外の被災者が集まってできたスラムのような場所で、路頭をさまよう女子のために「崇貞女校」を設立し、規模はだんだんと大きくなっていた。一度やり始めると戦争が終わり中国政府の管理に移るまでの二十何年間も続き、後に何度かの変革を経て今の北京朝陽門外の「陳経倫中学」になった。清水先生は戦後日本に戻ると今度は東京都の町田で「桜美林大学」を設立した。日中国交成立後この二つの学校はすぐに緊密な関係を作り、日中民間友好の美談となっている。

   筆者がこのことについて調査や理解および学習をしている間、清水先生の教育に対する情熱にたびたび感動させられた。我々中国人は中国が最も苦しかったときに我が身を投げ打って我々を助けてくれた日本の友達―清水安三先生を永遠に忘れてはならない。

   2007年の春に私が山崎朋子さんの力作『朝阳门外的彩虹』を読んだとき、感動のあまり涙が止まらなかった。この本は詳細な資料に基づいてノンフィクションの形を取り、(自体がまるで詳細な資料のようであり、真実を書き連ねていくという書き方で)清水安三先生とご家族が北平朝陽門外のスラムに「崇貞女校」を設立した全過程について褒め称えてあった(書いてあった)。そのとき私は思った、このすでに亡くなった日本人を覚えているのは中国人だけではなく、日本の良知を代表する作家山崎朋子さんと彼女の多くの日本読者もそうであると。(『朝陽門外の虹』は出版されるとその年のベスト10に入り、今では十数版を重ねている)

   かのフランスの大文豪ヴィクトル・ユゴーが名言を残している。「統治する者が犯した罪と統治される者の間には何も関係はない。政府は時に強盗にもなり得るが、人々は永遠にそうなり得ない。」

   虹は太平洋を跨ぐような、北京と東京を結ぶ橋である。これはすでに「崇貞女校」の久遠の歴史によって証明され、さらには日中両国の国民が繁栄に向かうためには避けることのできない道である。

   山崎朋子さんは1932年に福井県に生まれた。父親は海軍某潜水艇の艦長であったが、1940年のとある演習の際に艦とともに大海原に沈んだ。家庭はこのようにして突然の打撃を受けて変わってしまい、長女であった朋子さんは家を出てただ身一つで東京へ向かった。年若くして聡明かつ美人だった朋子さんはさまざまな紆余曲折を経たが、それらは彼女をさらに理知的でしっかりとした、成熟した女性に変えていっただけであった。彼女は倦まず弛まず(休まず)に進歩を追及し、心の中は将来芸術に身を投じる(かかわる)ことへの憧れでいっぱいだった。彼女は中国の多くの芸術家と同じく、フランスのロマン・ロランなどの作家の作品を好み、ソ連のスタニスラフスキーの表現理論の研究に心を傾けた。彼女はこの理論の原作を読むために大変な努力をしながらロシア語を独学した。その手から「露和辞典」を離さないこともしばしばあったという。(あの時代に日本でロシア語を学ぶのは中国で学ぶよりもはるかに大変なことだった。)彼女の情熱がここからも伺える。

   著作活動を始めた彼女だが、「誰のために書くか」ということについては常にはっきりしている。彼女の出世作となった『サンダカン八番娼館(望乡)』の主人公「からゆきさん」だったおサキさんからも分かるように、山崎さんが目を向けているのは社会の底辺にいる女性である。彼女は貧しい労働者に対して常に心からの同情を寄せている。山崎さんは北京の書店でのとあるサイン会の際の様子をこのように語っている。「本を買いたい人の列は一列の長い列になり、青年男女が中心だが中高年も中にはいて、どうやら北京に出稼ぎに来た人たちも少なからずいたようだ。これは彼らの服装や顔、手などの様子からも分かった。私が頭を下げて読者にサインをしているとき、机の下にある、泥が付いた布靴に気が付いた。中にはつま先が見えるものさえあった。」山崎さんはその目で見たものに誇りと安堵を覚えたようだ。

   「誰のために書くか」という問題は解決したが、まだ「どうやって書くか」という問題が残っている。山崎さんは一貫して先に調査、研究を行ってから書いている。彼女が初めて中国を訪れた際には農村の貧しい地域への取材を強く希望し、接待する人を困らせたこともある。彼女の取材は決して「一過性」のものではなく、普通は三回以上は取材を重ねる。こうすることによって心を通い合わせることができるからだという。例えば『朝陽門外の虹』を見ても1992年から資料集めに着手し、完成するまでに10年もの時間を費やしている。

   著作に対する真面目な姿勢と努力を厭わない探索精神によって、彼女はとっくにノンフィクション作家およびアジア女性史学の専門家として公認されている。私は幸運にも皆さんに告げることができる。今日に至るまで山崎朋子さんは変わらずに神聖な目標へ歩み続けている。これこそが中国の多くの読者への福音に違いない。


翻訳:小象
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by manmanlai | 2009-08-01 22:10